平安時代の日記文学、作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)で13歳から52歳までの作者の出来事、願い、行動など一人の女性の生き方が知ることができる。特に少女時代の記録には興味がもてる。写真は今の奈良公園であるが孝標の娘が平素みていたのは、五重塔や大きな建物、お寺などだと思う。
少女時代の夢
本文 あずま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語というもののあんなるを、いかで見ばやと思いつつ、徒然なる昼間、宵居(よひい)などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるようなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思うままにそらにいかでかおぼえ語らむ、いもじく心もとなきさまに、等身に薬師仏(やくしぼとけ)を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身を捨てて額(ぬか)をつき祈り申すほどに、13になる年、のぼらむとて、9月3日門出して、いまたちといふ所にうつる。
年ごろあそび馴(な)れつる所を、あらはにこほち散らして、たちさわぎて日の入り際のいとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ額(ぬか)をつきし薬師仏の立ちたまえるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
訳 父親 菅原孝標は東海道の更に奥、平安の都から遠くはなれた上総の国(今の千葉県市原市)の国司に赴任した。兄、姉、本人、継母、乳母が一行に加わり10歳から13歳まで、4年間ここで暮らした。都の人からみれば、かなりの田舎娘に見えたことでしょう。でもこの頃、世の中にものがたりというものがあり、なんとしても自分で読みたいという強い強い気持ちを持ちだしたことである。これと言って何もすることのない昼間や宵の口の団欒などで、姉や継母などにあれやこれやの物語・光源氏のありさま等をところどころ話すのを聞いているうちに、いっそう詳しく聞きたいという強い気持ちが湧いてくるのだが、わたしの望むとうりに、どうしてすっかり暗唱して話してくれようか、とてももどかしくなるので、遂に等身大の薬師仏を造り、手を洗い清めたりして、人の見ていない間にそっと仏間に入っては、早く京に上がらせてください。そこには物語がたくさんあるそうですが、あるだけたくさんお見せ下さいと一生懸命、額を床に押しつけてお祈り申しあげているうちに、願いがかない、13になる年、父の任期が終わるので上京することになり、9月3日に門出をしていまたちというとこに移った。今までの長い間遊び場であったところは、何もかも、取り外し散らかし霧が立ち込めている中を車に乗り良くみると、部屋の中にひそかに参り、額をつけてお祈りした薬師仏が立っていらしゃいます。お連れ出来ず見捨てて旅立つことが、とても悲しくて、泣けてきてしまった。
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1.13になる年、当時は数え歳だったので、今でいうと12歳といえる。田舎娘と言ってるが高級貴族のお姫様ですね。更科日記は孝標女が52歳の時書かれた回想記で、今で言う日々の出来事を書く正確な日記文学とは違う。
2.薬師仏 多分父親が仏像の彫しに造らせたのでしょう。孝標女の発想が積極的で行動的である。また、それを聞き入れた、娘に対する父親の強い愛情が感じられる。帰り際、ポツンと空になった家屋に残された薬師仏の姿がいつまでも忘れられないのでしょう。作者の優しさがわかる。この仏像現代でも、どこかの寺に残されているかもわかりませんね。
3.いまたち 地図帳を調べたが、それらしき地名はなかった。これからも地名が出てくるが発音の変化によるのか、現存する地名の特定は決めにくい。当時出かけるときには、好ましい日時吉日、方位がありその調節か、他の一団を待つためか、何らかの理由があったと思う。ただ旅の出発地、本人にとっては希望に満ちたワクワクの旅の始まりであった。
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