本文 からうじて越え出でて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河(するが)なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いわつぼ)といふ所あり。えも言はず大きなる石のの四方(よほう)なる中に、穴のあきたる中より出(い)づる水の、清く冷たきことかぎりなし。
富士の山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては西おもてに見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の紺青(こんじやう)を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白き、衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山のいただきの少し平(たひ)らぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮は火の燃えたつも見ゆ。
清見(きよみ)が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫(くぎぬき)したり、けぶり合うにやあらむ、清見が関の浪(なみ)もたかくなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。 田子(たご)の浦は浪たかくて、舟にて漕(こ)ぎめぐる。
大井川といふ渡りあり。水の、世のつねならず、すり粉(こ)などを濃くて流したらむやうに、白き水はやく流れたり。
訳 やとのことで足利山を超えて関山に泊まった。ここからは駿河の国である。横走の関の傍らに岩壷という所がある。この岩壺にはとてつもなく大きな石がある。その四角になっている穴から水がわき出している。その水はとても透き通った清らかで冷たいことと言ったら、ほかにいいようがないほどである。
富士山があるのは駿河の国である。私の育った上総の国では西の方に小さく見えていた山である。ここで見える山の姿はとても壮大で大きく、ほかにくらべようのない美しい形をしている。円錐形のこの山の色は紺青色を塗ったようで、頂上付近は、夏でも雪が消えることがないのでしょう。濃い着物の上に白い衵(あこめ)の着物を着たように見えて、山の頂上の少し平になっている所から煙が立ちのぼる。夕方は火が燃え立つのも見える。
清見が関は片側は海であって、関所の番人たちの詰所(つめしょ)が立ち並んでいる。そこから海まで柵が造られている。波しぶきのためなのか海に霞がかかったように見える。清見が関の波も高くなってしまうのであろうか。景色のよいこと、とてもすばらしい。
田子の浦は波が高くて海辺はとても歩いて行けそうもないので、舟で沖まで乗り、通り抜けた。
大井川という渡し場があった。この川を流れている水はふつうでなく、お米のとき汁を更に濃くしたような白い水が勢いよく流れている。
※富士山は今でも人々に親しまれている山である。孝標女も近くで見ることができ、その感動はひとしを大きかったことでしょう。富士の山の描写が丁寧で、濃い紫色の衣のように、白い衵を着ている。富士の山の描写は沢山の人々がしているが、こんなに可愛らしい描写はない。やはり13歳の少女の感覚なのですね。当時は噴煙を出していたようです。今の富士山は静かですが、活火山なのですね。最後に噴火したのは1707年(宝永4年)、以後300年以上休んでおり、ぼちぼち噴火するかもと言うことで観測が続けられている。
竹取物語にも富士山が出てます。月に帰るかぐや姫が、帝に不死の薬を形見として置いて行きました。ところが帝はかぐや姫がいなくなり、落ち込みます。不死の妙薬を飲んで長命を得ても、楽しくない。そこで臣下に、せめて月に一番近い富士山に登り、この妙薬を焼いて欲しいと言うわけです。この不死の妙薬が訛って富士山という名前になったという説もあります。
伊勢物語、在原業平(ありわらのなりひら)も「富士の山を見れば、五月に、雪いと白う降れり」とあります。都から見える山々にない形と雪が頂きにある姿に強い感銘を受けられたと感じる。
※田子の浦については、百人一首にある山部赤人の歌が、よく知られている。
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける。
田子の浦を通って広々と視界が開ける所に出て見ると、なんと真っ白に富士の高嶺には雪が降り積もっていたのだった。